昭和49年09月15日 朝の御理解



 御理解 第61節 
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 いつまでも尽きぬおかげの受けられる信心をさせて頂きたい。ただ私がおかげを頂いて、私一代で終わるといったような信心では。教祖様は尽きぬおかげの頂けれる信心を話に残しておって下さるのにも関わらず、なら果たしてお道の信奉者が、親の代よりも子の代というように、だんだん尽きぬ限りないおかげに恵まれる、そういう信心をしておる人というのは、ごく私はまれだと思う。ただ、先代は熱心だったけれども、二代はという、けっきょく私はそれは熱心であるというだけではいけないという事です。ね。
 そこのところを、今日は頂いておるように思います。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をして行くと。今、合楽で言われておる合楽示現活動に参画するという事がピッタリ来るような感じが致しますですね。皆さんが合楽に御神縁を頂いて、様々におかげを受けて見えられた。その受けたおかげを、人に伝えて行く。または、現在合楽で頂いておるおかげの実際を、ね、誇張もいらなければ、要領もいらん。ただ、そのままを話して行けば良いのである。ね。
 合楽でおかげを受けておる。ね、また合楽でおかげを皆さんが現しておられる、その事を話して行く。同時に、自分がおかげを受けて来た。しかもそれを神心となりてというところが、まあちょっと難しいのですね。けれどもそういう信心を段々頂かせてもらうという事。今合楽で信心の一番尊いと言うか。一番先頭切っての信心は、何と言うても示現活動に参画するという事である。ね。
 だからそれがどういう訳に、その有り難いのか、尊いのかと言うと、例えばここの御理解を頂いても、まっそれを実行して行くという事が神様へのお礼にもなると仰せられますが。ね。お礼と言うよりもね今合楽で示現活動に参画すると言う事は、神様の願いに応えると言う事です。言うならば、神様の手にもなろう、足にもならせてもらおう。また神様の口にもならせて頂こうというのが、示現活動です示現、ね、それは神仏が不思議な働きを示し現す事だと。
 もう神様が今の場合、もう先頭に立っておられるんですから。こちらがその思いを受けて立たせて頂くという、生き生きとした信心。ここの所がお互いおかげを頂いたものだなと。ただ神様へのお礼というだけではなくて、神様のお心に応えられると言う事が素晴らしい。ね。現在の地球上から一人でも多くの、神を信じての生活。神を信じての生き方の出けれる氏子を、一人でも多く生き残る人々としてのおかげを頂かせたいという、もう止むに止まれん、言うなら神様の願いというよりも、悲願。
 神の悲願に応える事になるのですから、私はおかげが受けられる。ね。今毎日合楽では、まあ言うなら奇跡の連続ですけれども。例えば昨日延岡の黒木さんという方からお礼の手紙が来た。8月16日の御大祭に、ね、夏の御大祭に初めて御神縁を、初めて御神縁を頂かれた方です。それも切羽詰った大変人間関係の難しい問題でお参りになりました。その事がです、そこからまた一回あちらから、あの沢山朝の御祈念に一偏参って来られた事があります。その中の一人なんです。
 所々だけれども読んで見ましょうか。マツダのという自動車の販売をなさる会社なんです、の延岡支店ですかね。最初の目標では、二日間で400名くらいのお客さんが来て下さればと言うておりました所、二日間で800名あまりの来客がありました。契約台数17台の驚くべき大きなおかげを頂きまして、本当に有り難うございましたと。次の最近一ヶ月の売上台数が30台が難しいと言うのに、2日間で17台ですから、只々神様のおかげに驚くばかりでございます。
 このお客様のお引き寄せという、契約台数と言い、神様のお取り計らいなくてはこういう事は起こらなかったと思いました。それにまたこの度は二日間のお天気のお繰り合わせは、どのようにお礼を申して良いか分からぬほどのお繰り合わせを頂きました。台風が直接来るというのを、本当にマツダ営業所の上だけ雨が降らないのです。とありますだから、ここをちょっと抜かして読みます。6時頃からだったでしょうか、それはもう待っていたように土砂降りでした。
 それもその筈その夜台風通過だったのですから、本当に主人と只々驚くばかりで、おかげの大きさをありありと見せて頂きました。その御主人の今度都城の営業所へ移られるのに、もう全然この頃売上が減ってしまって、もう今変わったらもう自分の顔も立場もないと言うておられた。最後の所に書いてありますけども、本当に今度都城に移らせて頂くのにも、それこそもう意気揚揚として移って行く事が出ける。こういう大変な置き土産をして行けると言う事が有り難いと。
 丁度あの台風がその、ここ辺りもでしたけど、ここ辺りはおかげを頂いた。宮崎の方ではもうちょうどその日だったんです。所が今ここにも書いてある。そのマツダ営業所の上だけが、青空が出ておったと言うのです。して終わったもう途端、6時頃から土砂降りになったと言うのです。いわゆる天地の親神様が、本当に天地が自由になると仰せられるほどしの金光大神のお徳によってそういうおかげを頂いておる。
 これを実際に例えば手紙でですから、ただ驚くばかりただ驚くばかりという言葉、何回も使ってありますけれども、実際にそれを聞いたり見たり、体験した者はもう愈々神様のお働きの一部一厘間違い。いやお取次ぎを頂いて、おかげを頂く事の素晴らしさにです。ね、只々驚くそれこそばかりであります。そういうおかげを例えばなら御広前まで現れておる話だけでも素晴らしい。私はまだおかげ頂ききっとらんからと言うならば、そういう話だけでも素晴らしい。日々の事ですから。ね。
 長崎の村元さんの妹さんなんかは、もう心臓が止まって体が全部冷たくなってしまっておった。お取次ぎを頂かれた時点からおかげで、おかげを頂いて。こちらから駆けつけて、御神米を持って行かれた時には、もう御神米が頂けれる状態になっておられた。そして、それこそもう初めて水も通らないのが、お刺身が食べたいと言うて、お刺身二切れと、まあお焼酎を頂かれたと言う様なおかげを頂いておる。ね。
 ですからそういう例えば、ならおかげもまた人に伝えて行くための、言うならば人に伝えて行く、まあ材料は事欠かないのが現在の合楽だと、こう思うです。ね、同時に例えば今皆さんが合楽示現活動へ参画する。ね、心にも願い神様にお願いをさせて頂きながらも、心が弾んで来ない。ね、そう言う所にです私は一つ本気での信心がなされなきゃならない。ね、人の難儀を見てそれこそ人の事とは思われない。もう自分の事として、と言う様な神心が出けて参りますと、伝えなければおられない。ね、
 それは電車の中であろうが、バスの中であろうが。又は隣近所にそれこそ袖すり合うも他生の縁と仰せられるのですから。ね、その縁にすがってのおかげ。先日十三日会の時に池田さんがお話になっておられますように。福岡から参って来る電車、バスの中で人に伝える。例えば同じ日の同じ時間に、しかも同じ電車に乗り合わせるという。しかも隣に掛け合せると言う事は、もうただならぬ神様の御神慮だと頂いておられます。
 またそうです。同じ日の同じ時間に、しかも同じ箱に乗り合わせるというほどしの縁は、とてもとてもただ事ではないと実感して。そこに神様のお話をする一つの確信のようなものが生まれて来る。そすともう間違いなしにです、その方が喜んでお話を聞いて下さるという、神様のおぜん立ては、もうそれから先に感じられるという発表をなさっておられましたですね。そこでなんですけれどもお互い矢張り、親切心と言うか、言うならば人の難儀を見て、自分の事のような思い方。ね。
 人の難儀とは思われん。矢張り自分の身にもつまされる。ね、そういう思い方はだんだん出けるようになるのですけれども。私、本当の意味においてのです。ね、私共が今神様のお心に応えると言う事は本気に、ね、世界総氏子の身の上安全であって。言うならば、大きな人類愛からの祈りでなからなければならないという事です。そこでですその私が頂いておる人類愛というものを検討して見て御覧なさい。
 まだまだ、本当なもんじゃないな人の難儀を見て、はあ気の毒だとお道の信心の話の一つもさせてもらおうという気も起こるけれども、今度はそれとは反対にです。ね、人の喜びを自分の喜びとさせて頂けるような心に欠けておる事に、改めて気付きますね。人が、言うならば成功したとか。人がおかげを頂いておる、その人の喜びというものをです、見たり聞いたりして、羨ましい心が起こったり、妬ましい心が起こったり。
 それこそ隣の人が家を建てると、隣の人は腹を立てると言った様な、言うなら心がです、人間の心の誰の心の中にでもあるのです。ね、人の喜びを自分の喜びとさせて頂けるという事とです。人の苦しみを自分の事のように、人事とは思われんという、その心の二つが、私は神心だと思うです。この二つがね私心の中にたぎって来る時です。ね。愈々実意丁寧に人へも伝えて行かなければおられない。いわゆる示現活動に参画させて頂く事が本当は出けるんだと思います。
 あそこにも困った人があるから、お話に行こう導きに行こう有り難い。ね、それも有り難い。けれども本当にその人が助かると言う事のために繋がるほどしのものは、矢張り神心を持ってとここに仰られる。ね、神心となりて丁寧に話して行けとこう仰る。その神心と言うのはね人の喜びをね、自分の事のように喜べれる心の状態を頂かなければいけません。人の苦しみを本当に人事とは思われぬと、そこに立ちあがる心。そういう二つの心がね、私はここで言う、神心となりてというのはそういう心。
 そこで自分の心というものを検討させて頂いて、まだまだ自分の心の自由自在なおかげの頂けれる心でない事実を、その場合に発見するですね。私は今朝方からお夢を頂いたんですけれども。そのまあ何て言うですかね。運動場なんです所謂スポーツセンターの様な。それがねその全部あの木で出けてるんですよ、木を切った様にしてる運動場が。まあこれは私共から見れば、まあ大変ちょっとおかしな事ですけれども。天地の親神様からすればそう言う様な事は、まあやっぱり考えられない事はないと思うですね。
 それが私が何の木で出けておるだろうかと、私が夢の中で思いよるとです。そしたら木へんにね、愈々という字が書いてある。あれは何ち読むじゃろか。そういう字があるじゃろうか。木へん書いてあの愈々と書いてあるです。何という字かなそういう字があるですか。まあないにしてもです。例えば木と言う事は心です。ね。だから心が愈々ますますですという意味だと思ったんです。ね、
 そこでですあの沢山な人達が色んな体操をやったり。ね、あの重量上げですかこうやったですね。それやら走り幅跳びやらね、その高跳びやらをそのまた、もうそれこそ広い広いですからね。もう沢山な運動種目があって、その運動をしておる人体操をしておる人、沢山あるお知らせを頂いてです。それがねいわゆる木へんに愈々と。ね、愈々ますます自分の心の中がです自分の心がです、自由自在な働きの出来れる、いわば運動というか、体操をしておる姿だと私は思いました。ね、
 自分の例えば体にです。ね、病気があったりまたは痛い痒いがあったり。ね、傷をしておったんではさあ、自分の手足一つすら動かす事が出来ないでしょうもん。傷があったり、病気しておったら。ね。そこで私は健康ですと言うておるだけではいけないと言う事です。私はもう極楽だと言っとるだけではいけない。極楽の向こうに、もう一つ合楽という、神も喜び氏子も生けれ、言うなら天地が一つになって喜び合えれるような世界を顕現して行くという働きになる為に。
 自分がどうもないから人のこつなんかどうでも良いというのじゃなくてです。いよいよその体操をさせてもろうてです、自由自在に動けれる、言うなら心の体操である。ジーッとしとったのじゃいけません。矢張り心の体操をさせてもらう。ね、人はとても持ち上げられないような重い物でも平気で持てれる心を頂かせてもらうと。とても普通では超えられないような難儀な問題でもです、そこを一足飛びに飛んで行けれるような信心のけいこをさせてもらう。
 それには自分の心がです愈々有り難い方へ、有り難い事へと自由自在に使いこなせれるおかげを頂かなきゃいけませんから、どうでも心の体操が必要だという事になります。自分の心の中に、はあこんな心は自分になかったはずだけれども、実際問題に直面した時に、ならその汚い心と言うか、浅ましい心が出ておるのに驚く。ね、それを有り難いものに向けていく、例えて言うならばです。ね。誰々さんは最近えらい商売が繁昌して、えらい儲けだしござるげなと。
 あれがそげん言ったっちゃ、貴方昔はあげんじゃったからと言う様な、悪口を言いたいような心は、もう愈々これは神心から外れた心です。人の儲け出した話聞いて腹の立ちよる。はあ本当に有り難いなと。その人のいわば成功を喜ばせて頂くような心。そういう例えば様々な時、そういう心が自分の心の隅から発見された時です。それを自由自在に有り難い方へ、有り難い方へと頂けれる心の状態をけいこさせてもらう。私は皆さんが毎朝ここへお参りをして、ね、信心の稽古をなさると言う事は。ね、
 一心の祈り御祈念をなさると言う事と同時にですね、尽きぬおかげの頂けれるお話を頂いておられるのでございますね、ですからその尽きぬおかげの頂けれる金光大神の御教えを頂いたらです、それを私共が日常生活の上に、ああでもなかろうかこうでもなかろうかと色々に工夫させて頂いて、使いこなして行くと言う事こそ、心を自由自在に使うて行くけいこだと思うです。そういう稽古をさせて頂いて生まれて来る所の神心。
 そういう神心を持って、人に伝えて行くというおかげを頂いた時に、初めて神へのお礼にもなると当時に、それが真の道を踏んで行くのぞと仰せられる事になるのですから、そういう生き方の上から生まれて来るおかげをです、私は限りないおかげに繋がる信心だと思います。神になりても、神より上になるとは思うなと、最後にいわば、こう釘を一本刺しておられるような気が致しますね、
 私が思いますのにね、金光様の信心をさせて頂いて、いわば尽きぬおかげの頂けれるお話を頂いたり、おかげを頂いて来とるけれども、それを実際に実行して来た。神心となりて、今神心の追求を愈々させて頂いとらん。そして神心を持って人に実意丁寧に伝えておらん。十年も信心させて貰いよるとに、まだ一人のお導きも出けとらんと言った様な事ではです、矢張り尽きぬおかげにはなりませんよね。神様へのお礼が出けておらんもん。ね。言うならばです。
 神様を使うただけだと言う事になっとります。お願いをしておかげを頂くと言う事。只おかげを頂いただけだと言う事になる事はどう言う事になるでしょうか。ね、神様を使うただけになるでしょう。ね、例えば使用人の人を主人が使います。言うならばそれは自分より目下だからです。所がですおかげを頂きっぱなしというのは、どう言う事かと言うと、神様を使用人のように思うて使うておると言った様な事がです私は、ね、神よりもう既に上になっとるような事だから成程これが、ね。
 限りない尽きぬおかげに繋がっていないんだと思うのです。成程金光様の御信者さんが、成程2代3代に続かないはずだと思うですね。おかげを頂いて金光大神の御教えを頂いた信者は、もうどれ程あるか分からない。所がそのどれ程かあるか分からないという、殆どの人がです、神様を使いっぱなしにしておると言う事なんです。神様を使うのですから、神より上になった訳でしょう。ね
 これでは尽きぬおかげに繋がらないです。ね。頂いたおかげを実意丁寧に人へ伝えて行く。神様の願い神様の手になり足になる。又は神様の口にもならせて頂こうという生き方こそです。ね、神様に使われる生き方になるのです。だから尽きぬおかげに繋がるのです。ね、同時に神よりも上になると言う事はです。じゃあ例えばならお導きが出けてもです。人に実意丁寧にお話させて頂いてもですね、私がと言った様な我と言いましょうか。また人が助かったら、私のおかげであの人が助かったと言った様な。
 慢心を起こしてはならないと言う事の意味もあると思います。けれども私は神より上になるという事は、神様を使いっぱなしにしておると言う様な意味に頂いたら。その証拠には沢山のお道の信者があるけれども、尽きぬおかげに、只そん時そん時のおかげであって。必要なものが必要に応じて、限りなく限りなく頂けれるというおかげ、お徳を受けていない。子供に伝わっていない孫の代になって、愈々繁昌をしていないね。
 そこの所をです私共は愈々ですね、神様に使われる私達。そのために私共の所謂心の状態というものをです。まあ色々に検討させてもらえば、検討させてもらえるでしょうけれども、人の喜びが自分の喜びとして感じれるような心の状態を願っていく。人の苦しみをそのまま自分の事のように思えれる。言うならそういう心の状態を、言うならば和賀心とも言えば、または神心とも言うのですから。
 そういう心を追求して行くと言う事なんですねそういう心を求め、求めさせて頂きながらですね、おかげを頂いて。その為にしっかり心の体操をしなければいけない。合楽の言うならばここに大きな運動場が、ここにこうしてある訳ですからね。本気で信心のけいこをさせて頂くと言う事は、自由自在に自分の心のですね。本性を見極めさせて頂いて、一切のことを有り難い有り難いで受けて行けれる心の状態にきたえて行くけいこ。きたえなければ駄目です。
 ところがなら自分の心に傷があったり。ね、心が病んでおったりしたのでは心が動きません。示現活動、示現活動と言われるから、おかげを頂きたいと思うけれども、そういう心が起こって来ないとするならばです、今、貴方は心が病んでおる。心が傷ついておる。何者かに囚われておる。だから身動きが出けないのだという事を悟らせてもろうて。何に囚われておるのか。
 心がどういう風に病んでおるのか。心がどのように傷ついておるかと言う事を、先ず先決としておかげを頂いて。わが身におかげを受けて。そして、後に溢れるような信心の喜びを持って、神心を持って人へ伝えて行くと言う事をです。ね。私は尽きぬおかげの頂けれる、そこから原動力というか。ね、お徳を受けて行くという働きが、そっから生まれて来る、身に付いて来る。ね、そういうおかげを頂きたいと思うですね。
   どうぞ。